大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 昭和52年(ワ)4934号 判決

原告

マコト印刷株式会社

右代表者代表取締役

根井実

右訴訟代理人弁護士

小見山繁

福本嘉明

被告

右代表者法務大臣

鈴木省吾

右指定代理人

大沼洋一

外一名

被告

東京都

右代表者知事

鈴木俊一

右指定代理人

半田良樹

外二名

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告らは原告に対し、各自金三五四七万円及びこれに対する昭和五一年九月九日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  主文同旨

2  担保を条件とする仮執行免脱の宣言

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

(一) 被告国は、河川法九条一項により石神井川を管理し、同法九条二項により東京都知事をして石神井川の管理の一部を行わせているものであり、被告東京都は、同法六〇条二項により石神井川の管理費用を負担するものである。

(二) 原告は、肩書地に本社、板橋区大谷口北町八九番地に工場を有する株式会社である。

2  本件水害の発生

昭和五一年九月九日、台風一七号のもたらした集中豪雨により、石神井川は、板橋区大谷口北町付近を中心に出水、氾濫し(以下「本件水害」という。)、そのため石神井川に近接する原告の板橋工場内部が水浸しとなつて(最高時床上一メートル)、印刷機、製品、原材料(フィルム、紙等)などのすべてにわたつて損害を受けた。

3  石神井川管理の瑕疵

被告らには石神井川管理につき次の瑕疵がある。

(一) 改修工事の遅延

一級河川であり、典型的な都市河川である石神井川は、特に板橋区内において、わずかに降雨強度約二〇ミリメートルに耐えられる程度の状態で長年放置されていたため、台風、集中豪雨の度に浸水、冠水を繰り返し、沿川住民に多大の被害を与えていた。

しかし、本件水害の発生した現場付近について、改修工事の都市計画決定がなされたのが昭和三六年一月一三日であり、具体的に工事を開始するための事業決定(事業承認)がなされたのは昭和四三年九月三日である。工事完成予定は当初昭和四六年度であつたが、昭和四七年三月二五日、昭和五〇年三月一八日と二回にわたつて工事期間が延長され、本件水害発生時の昭和五一年九月に至つても本件現場付近の改修は行われていなかつた。右改修工事の内容は、川幅一七メートル、深さ七メートルで降雨強度五〇ミリメートル程度に対処できるものであり、本件現場付近の改修工事が、当初の予定どおり、ないしは遅くとも昭和五一年夏までに完成していれば、本件水害を防止できたことは明らかである。

(二) 改修工事による流水阻害

本件水害当時、石神井川と川越街道の交差する上板橋部分は未改修であり、その直近上流部分一一〇メートルの区間は改修工事が完成していた。そして右改修部分には、川の中にH杭が打ち込まれ、ステージングが組まれていた。そのため、本件水害当時H杭と護岸の間に上流から押し流されてきた材木、衣類、布団、プラスチック、畳などが堆積し、しかもステージングの高さが護岸の最上部よりも約五〇センチメートル低かつたことも加わつて流水を妨げ、水害の原因の一部ないし被害の増大の原因となつた。

(三) 上板橋部分の改修の遅延

本件水害による浸水の状態、上板橋部分の改修前後の浸水状況からして、本件水害は上板橋部分がネックとなつて溢水したと推定することができ、少なくとも上板橋の改修が本件水害当時完成していれば、本件水害による被害をより減少させていたことは疑いがない。

(四) 本件水害当時、下水道の逆流による浸水を防ぐための排水機場、水害の危険を近隣住民に事前に知らせる警報装置の設置がなされていなかつた。

4  損害

(一) 機械修理代金 金二一六七万二四二〇円

(二) 白紙使用不能分(仕入原価) 金四三二万一五〇〇円

(三) フィルム・PSアルミ版 金二九一万円

(四) 預り完成品(ポスター)分(納入価格) 金五四万六〇〇〇円

(五) 操業停止による売上減(昭和五一年九月九日から少なくとも一五日間)  金四〇万一五〇〇円(一日平均売上高)×一五日=金六〇二万二五〇〇円

右合計金三五四七万二四二〇円

5  よつて、原告は、被告らに対し、前記損害金三五四七万円(一万円未満切捨て)及びこれに対する損害発生日の昭和五一年九月九日から完済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1は認める。

2  同2のうち、本件水害の発生、原告の工場が石神井川に近接していることは認め、その余は不知。

3  同3は争う。但し、同3(一)のうち、都市計画決定、事業決定、工事完成予定、その延長、及び改修工事の内容、同3(二)のうち、上板橋部分の未改修、上板橋直近上流一一〇メートルの区間の改修工事の完成、H杭、ステージングの存在、及び同3(四)のうち、排水機場、警報装置の不設置は認める。

4  同4は不知。

三  被告の主張

1  改修工事の遅延の主張について

(一) 石神井川の河川管理の安全性

被告、国・東京都は、人命・資産を洪水被害から守り地域の保全と民生の安定のため、都内各河川の重要度、過去の水害の規模等諸般の事情を総合的に考慮し、限られた予算の中で各河川について改修工事を行つてきたのであり、石神井川における本件水害の発生した五一年当時の河川の流下能力は、本件地の下流に位置する東上線交差部までは時間雨量五〇ミリメートルに対応しうるまでの改修工事が進捗しており、東上線交差部より本件地を含む上流部分は、時間雨量三〇ミリメートル程度に対応しうる流下能力を有していたが、これは、当時の都内の他の中小河川の改修規模の主眼が時間雨量三〇ミリメートルであつたことと比較し、同種・同規模の他の河川の管理の一般水準及び社会通念からみて是認しうる安全性を有していたということができる。

また、後述するように石神井川の河川改修への投資額が、過去の水害の規模・流域内の都市化の進展の度合いからみても、他の都内中小河川に比しはるかに河川管理上力を注いでいたのであり、改修率も高く河川管理の特質に由来する諸制約のもとでの同種同規模の河川の管理の一般水準を上廻つていたものである。

(二) 改修実施計画の合理性

石神井川の改修基本計画は、当初昭和二二年都市計画決定をえ、昭和三六年改修区間を隅田川の合流点から練馬区中之橋まで延長することになり、原告の所在地附近が包含された。

昭和四三年九月三日告示の事業承認により、これまでの改修区間を延長して隅田川合流点から上流桜橋までの八、一二〇メートルとされ、ここにはじめて原告の所在地附近の石神井川の改修事業が事業承認をえて具体的に着手することになつた。

右改修実施計画である事業承認の主な内容は次のとおりである。

(a) 変更の理由

石神井川の流域は、その当時急激に市街化の傾向にあつたので、防災上の見地から本案のように計画及び事業を変更しようとするものであつた。

(b) 改修区間

改修区間は従来隅田川合流点から新板橋までの四、九四〇メートルであつたものを、終点を新板橋より上流の桜橋まで延長して、原告の所在地附近の石神井川まで含むこととし、八、一二〇メートルとした。

(c) 施行年度

改修総延長八、一二〇メートルのうち、既に昭和四二年度までに改修済の三一%を除いた六九%について、昭和四三年度から昭和四六年度の四年間にわたつて施行するものとし、その施行割合は、昭和四三年度から昭和四五年度までが各年度一八%、最終の昭和四六年度はその余の一五%とした。

(d) 事業費

総額八五億五二二一万八千円のうち、昭和四二年度までに既に執行済の二六億三二二一万八千円を除くその余の約六〇億については、昭和四三年度以降の四年間に工事の施行割合に従つて割りふつた。

(e) 改修規模

申請書自体には明確に出ていないが、一時間当り雨量五〇ミリに対応しうるものであつた。

(f) 施行順序

改修区間の改修工事の施行順序については特に定めなかつたが、下流原則に従つて下流から順次改修工事を行うというものであつた。

そこで、右改修実施計画につき同種・同規模の河川の管理の一般水準及び社会通念からみての合理性を改修規模・改修内容に分けて検討すると以下のとおりいずれも十分な合理性が認められる。

(1) 改修規模の合理性について

(a) 都内中小河川の管理の一般水準

本件のような溢水の水害については、改修規模すなわち一時間当たりどの程度の雨量に耐えうる規模であつたかが特に問題となるので、昭和四三年を基準として、この点に関するその当時における都内中小河川の改修規模の水準をながめることにする。

昭和四一年六月、台風四号により都内中小河川の未改修地域に浸水被害を受けたことからこれに対処するために被告東京都は昭和四二年二月東京都中小河川緊急整備計画を策定したが、右計画の改修規模は多くが時間雨量三〇ミリを主とするものであり、一部のみ五〇ミリ対応の改修を行つていた。

右計画は、その後昭和四四年に被告東京都において策定した「東京都中期計画」に引き継がれ、右中期計画における改修規模も、時間雨量三〇ミリを主とするものであつたが、石神井川など一部の河川については、当初から一時間五〇ミリの降雨に対処する規模で整備するものも含まれていたのである。

(b) 国の中小河川の管理の一般水準

次にわが国における昭和五一年ころの河川改修における改修規模の目標を概観する。

わが国の河川改修計画の基本計画である治水事業五ケ年計画において、昭和四七年に策定された第四次五ケ年計画にあつては、河川を時間雨量五〇ミリ対応と位置付けている。

(c) 改修実施計画である事業承認の合理性

そこで以上を踏まえて昭和四三年告示の事業承認の合理性について検討する。

ア 改修規模の合理性

昭和四三年九月告示の事業承認における改修規模は、前述したように時間雨量五〇ミリに対応しうるものであつた。

ところが、昭和四三年当時都内中小河川の全般的な改修計画は前述のごとく「東京都中小河川緊急整備計画」であつて、右計画における改修規模は時間雨量三〇ミリ対応が主で、その後昭和四四年に策定された「東京都中期計画」においても改修規模は時間雨量三〇ミリが主であり、昭和五一年の本件水害当時も時間雨量三〇ミリ対応の右中期計画が全般的な基本計画であつた。

以上のことからみると、昭和四三年九月告示の事業承認における石神井川の改修規模が、当時の都内中小河川の改修規模の目標である時間雨量三〇ミリ対応を上回わる五〇ミリ対応であつたことは、当時の水準を大幅に上回わるものであつて、同種・同規模の河川の改修水準に比較して格段に改修に尽力していたことを示しており、このことはまさに右改修の合理性を物語るものである。

また、国レベルでみた場合においても、前述したように、昭和四七年に策定された第四次治水事業五ケ年計画及び昭和五一年当時の中小河川の改修目標は時間雨量五〇ミリ対応であつたのであるから、国レベルからみても事業承認における改修規模は、目標水準に達していたのであつて、このことは、河川管理の一般水準及び社会通念に照らしてみても合理性を有していたことの証左である。

(2) 改修内容の合理性

次に改修計画の内容をみてみると、改修計画変更の理由が、石神井川流域の急激な市街化に対応するため改修区間等を変更することにあつたこと、そのため改修区間を昭和四一年一月二四日告示の事業承認が延長四、九四〇メートルであつたものを、八、一二〇メートルとしてより上流部までのばしたこと、それに伴い用地取得の可能な区域を広げることによつて、全体としての河川改修を早めたこと、施行順序については、下流から上流へという河川改修の原則にしたがつていることなどが認められ、これらが、いずれも合理性を有することは明らかである。

また、施行年度については、昭和四三年九月三日告示の事業承認の施行年度の終了時点である昭和四六年度(昭和四七年三月三一日)までに完成不可能であつたので、昭和四七年三月二五日告示の事業承認で昭和五〇年三月三一日まで施行期間を延長し、更に昭和五〇年三月一八日の事業承認で昭和五三年三月三一日まで施行期間を延長している。

このように再三施行年度又は施行期間の延長を余儀なくされたのは、河川改修に伴う種々の制約によるものであるが、長期の施行期間を定めず施行年度又は施行期間の延長を三年程度に区切るのは、関係権利者に対する法的拘束が長期間にわたることが好ましくないとの配慮、及び事業承認の期間を定める場合は、数年度にするという一種の慣行があるためであつて、一般の他の河川でも行われていることであり、このことからみても施行年度の定め方に何ら不合理はない。

次に事業費であるが、昭和四三年九月三日告示の事業承認における事業費は、八五億五二二一万八千円と定めた。

ところで、事業承認で定める事業費は、改修河川の標準断面について、円滑に事業が遂行される場合を前提として算出される概算であつて、工事施行に伴う不確定要素は考慮せずに定めるものである。

したがつて、事業が数年にわたる場合の物価騰貴に伴う事業費増加、工事施行上例えば、鉄道の下の改修、橋梁等の工事における予想外の困難な問題に伴う事業費増加、騒音公害に伴う工法変更による事業費増加等は考慮されていないこととなる。

このようにして事業費を定めるのは、文字どおり不確定のために事業を具体的に施行してみないとわからない場合がほとんどであつて、事前にそれを予測して金額を算定することがきわめて困難かもしくは不可能であるためであり、事業承認をえる段階においてはやむをえないことである。

(三) 改修実施計画後における水害発生の顕著な危険性の不存在

次に、改修実施計画である事業承認後に水害の危険性が顕著となつたかの点である。

前述したように原告建物附近の石神井川の改修は昭和四三年九月三日告示の事業承認により、はじめて時間雨量五〇ミリ対応としてとり組まれることとなつた。

そして、右事業承認は同四七年三月二五日、同五〇年三月一八日に施行期間と資金計画がそれぞれ変更されたが、その他の改修内容はそのまま引き継がれた。

ところで、原告の建物の存在する土地のやや上流の上ノ根橋附近から下流に向つて上板橋附近までの間、さらに上板橋から下流へ向つて東上線と交差する間附近の土地は、地形的にも地盤が低いため、以前から浸水被害がしばしば生じた土地であつて、昭和四三年の一年間でも同年四月三〇日及び同年八月二九日の二回において被害を発生させている。

しかし、これらの被害をもたらした降雨量は、当初から改修実施計画である事業承認に折り込んで定められているものであつて、昭和四四年以降の被害をもたらした降雨量についても同様に折り込み済みであり、これらは右各事業承認後に新たに発生した顕著な危険性ということはできない。

(四) 特段の事由の発生の不存在

さらに、当初の計画の時期を繰り上げ、又は工事の順序を変更するなどして、早期の改修工事を施行しなければならない特段の事由が生じたかを本件につき検討すると、本件工事の施行順序である下流原則を変更して、上板橋から原告建物附近までを、上板橋から下流の東上線交差部分より先に改修工事を施行した場合に即時的に被害の軽減又は解消につながるかどうかが問題となる。

ところで、河川の水流は上流から下流に流れるものであるから、溢水事故の軽減又は解消のためには、結局どれだけ多くの流量を下流に流しうるかということが最も重要である。

そして、下流に流す流量は、下流部の改修状況如何によるものであるから、一般的にいえば下流部の改修がより多く進むことこそが溢水事故の軽減又は解消につながるわけであり、河幅の拡張にせよ、河床の低下にせよ下流から上流に向かい順次実施すべきことは当然である。

そこで、本件についてみると、原告建物附近より上流部が未改修で、原告建物附近から上板橋まで改修されており、その下流部は未改修のままというのであるから、河川の流下能力としては、未改修である下流部の流下能力しか有しないこととなる。

そして、下流部の流下能力は時間雨量三〇ミリに対応しうる程度であつたから、上板橋から原告建物附近までをさきに時間雨量五〇ミリ対応の護岸を築造したとしても、時間雨量五〇ミリ対応の能力を有することにはならず、即時的な治水効果は全く認められない改修となる。

なお、河幅の拡張によつて河川断面が大きくなることにより、在来の河川と比較して、多少水を貯えるプール的な機能をもつ場合も考えられないではないが、時間雨量三〇ミリ対応の断面を五〇ミリ対応の河幅に改修する程度ではほとんど意味をもたない。

したがつて、このように即時的な水害の軽減又は解消に何ら役立たない場合には、改修計画を変更してまで早期に改修工事を行う特段の事由はないというべきであつて、本件において、原告建物附近を下流部より先に改修しなかつたとしても、何ら不合理ではない。

(五) 改修工事の実施の状況

右に関連して河川改修工事の実施の状況につき検討すると、この点に関しては改修実績すなわち、どの程度改修工事が進行したか、という点が重要であるが、経費のかかる難工事の多い河川の場合には、その努力にもかかわらず、改修実績がそれほどあがらない場合がありうる。

そこで、このような場合の改修工事の実施の状況を判断する基準としては、当該改修工事にどの程度の資金を投下したかという投資実績を見る必要がある。

そこで、投資実績と改修実績の二点から石神井川の改修工事の実施状況を検討する。

(1) 投資実績

原告建物附近の石神井川の改修工事が時間雨量五〇ミリ対応にくみ入れられたのは、昭和四三年九月三日の事業承認によるものであるから、特に昭和四三年度から本件事故(昭和五一年九月九日)の前年である昭和五〇年度までについて、中小河川事業費に占める石神井川改修事業費の割合を示すと中小河川事業費に占める石神井川改修事業費の割合は、一番高い昭和四三年度で二八・八%、一番低い昭和四九年度で一五・五%、そして八年間の平均では二一・六%にあたる。

ところで、東京都管内の河川は全部で一一五河川あり(但し、これは昭和五三年九月一日現在であるが、年により数河川の増減がある。)、このうち大河川である江戸川、多摩川、荒川を除いたその余の一一二河川が都内中小河川ということになる。

ところが、右一一二の中小河川のすべてが当面河川改修を必要とするわけではなく、そのうち特に四六河川について当面河川改修を必要とし、河川の改修を行つてきたものである。

したがつて、前記中小河川整備費も、当面改修の必要性がある四六河川を対象に投下されたものである。

そこで、仮に、改修の必要がある四六河川に均等に中小河川事業費が投下されたと仮定すると、一河川に投下される右事業費のうちの割合は、二・一七%にすぎない。

これと前記石神井川に投下された中小河川事業費中の平均割合二一・六%とを比較すると、石神井川は均等に投下されたときの一河川分の一〇倍以上が投下されてきたことになる。

このことからみても、石神井川は、同種・同規模である他の河川に比較して極めて多額の資金が投下されてきたことは明らかである。

(2) 改修実績

(a) 都内中小河川の昭和五一年度末における改修状況

まず、本件水害(昭和五一年九月九日)より約半年後の昭和五二年三月三一日現在における都内中小河川のうち改修を必要とする四六河川について、時間雨量五〇ミリ対応の改修がどの程度進捗していたかを検討する。

改修を必要とする四六河川の延長は三四八・八キロメートルで、うち昭和五二年三月三一日現在の改修済延長は四二・九キロメートルで改修率は一二・三%である。

これに対して、石神井川は、改修必要延長は二五・二キロメートルで、そのうちの昭和五二年三月三一日現在の改修済延長は、六・七キロメートルで改修率は二六・六%である。

そこで、昭和五二年三月三一日現在における都内中小四六河川の改修率と石神井川の改修率とを比較すると、前者が一二・三%であるのに対し、後者が二六・六%と前者の二倍強の改修率である。このことは、石神井川の改修が他の同種・同規模の改修を必要とする都内中小河川に比較して、はるかに改修工事が進捗していたことの明らかな証左である。

(b) 国の中小河川の昭和五一年度末における改修状況

国における中小河川の昭和五一年度末における整備状況は、要整備延長七万三、五〇〇キロメートルのうち時間雨量五〇ミリメートル相当の降雨で安全な区間は一万九〇キロメートルであり、その整備率は一三・七%である。

これを前述した石神井川の同時点における改修率と比較してみると、石神井川の約二分の一に相当し、言いかえれば石神井川は、国全体の中小河川の改修率の約二倍に達していたのであり、河川管理の一般水準及び社会通念からみて、石神井川は、改修実績の点においても安全性の確保において合理的であつたことが明らかである。

2  改修工事による流水阻害の主張について

(一) ステージングの構造上の配慮

本件水害当時、上板橋上流の改修工事が完了していた区間(一一〇メートル)に、その下流端から約四メートル上流の地点より上流方向へ三〇メートルに亘り幅一五メートルのステージングが設置されていた。

右ステージングは右区間の改修工事の際、必要な工事用機械の作業場及び材料置場として使用していたものの一部で、右区間の改修工事の直後に予定していた上板橋架替工事のために使用するものとして残置したものである。

残置した理由は、H杭の打ち込み等による地元住民に対する迷惑を最小限度に抑えると同時に、H杭の引き抜き及び打ち込みの手間を省くという利点があつたためである。

ところで、右ステージングの構造は、H杭の足の上に覆工板を敷いたもので、H杭は一般的に三〇〇Hと呼ばれているもので、断面の寸法は縦横とも三〇センチメートルであつた。

右H杭の配列は、河川の断面でみると、左岸から五・四メートルのところにH杭があり、そのH杭の幅が三〇センチメートルであつて、次にこのH杭から六・二メートルのところに更にH杭があり、そのH杭の幅は三〇センチメートルあり、更にそのH杭から右岸まで四・二メートルの幅があつた。

以上のような構造をもつていたため、大きなゴミ例えば、畳等が流れて来ても畳は一般に〇・九メートルと一・八メートルの長方形の大きさであることから、河川断面の点からみて狭い所で四・二メートルの間隔があつたH杭の間を、十分に流れることが可能であつた(なお右H杭は、川の流れる方向に関しては二メートル間隔で打たれていた)。

特に本件事故当日のような豪雨による場合には、水流の勢いが強いため、ステージングのH杭に衝突したときに、畳等は砕けることも多いため、右ステージングは構造的にみて、畳等、塵類の堆積のおそれはなかつたのである。

(二) 塵類の除去

本件事故当日ステージングにおける塵類の除去については十分な努力をした。

すなわち、石神井川の改修工事の請負業者であつた訴外佐藤工業株式会社上板橋作業所に勤務していた訴外山田一夫(以下「訴外山田」という。)は、事故当日午前六時三〇分ころ、現地へ赴いたところ、石神井川は未だ溢水の状況ではなく上板橋の橋桁まで水流が達しているという状況であつた。

そこで、訴外山田は、ただちに同社の他の職員を集めてステージング設置箇所でゴミを除去する作業に着手した。

作業に着手した職員の数は六名で、その方法は河川工事に使用する鳶口を用いて引きあげるというものであつた。

当時流れてきた塵類としては、畳、発泡スチロール、材木、プロパンガスボンベ等であり、前記職員らは、鳶口を使用して、これらの塵類をできるだけ除去し、ステージングに塵類が堆積することを完全に防止してきたのである。

なお、このころ、石神井川の下流では改修工事中の業者である鹿島建設、蕪木建設等の作業員がそれぞれ自己の請負区間につき塵類の撤去等の作業を行つていた。

また、埋設物管理者である東京ガスの職員、東京都の水道局の職員等も出動し、それぞれ同様の作業を行つた。

以上のようにして多数の人員が、当日午前六時三〇分ごろから溢水があつた七時三〇分ころ及びその溢水が止むまでの間流れてくる塵類等の撤去作業を行つた。

その後石神井川は、午前一一時から一一時三〇分ごろにかけて再び溢水となつたが、この前後において、訴外山田らは再度前同様にして塵類の撤去作業に従事した。

3  上板橋部分の改修の遅延の主張について

原告が上板橋部分において、上流の未改修部分より狭い部分が存在するとの主張は、やや上流の両岸部分にある鋼矢板の部分をさしてのものと思われる。

この鋼矢板の部分は、「根がため」といつて、護岸の倒壊等を防ぐために河床部分にやや突き出ているコンクリートで被覆された部分であつて、これは改修工事以前から存在する在来河川そのものなのである。

そして、河川の「根がため」は、上流の未改修部分についても存在するものであつて、同様に両岸に鋼矢板があり、これが「根がため」である。そして、この鋼矢板ではさまれた河川の幅と原告が主張していると思われる上板橋部分とを比較してみると、ほとんど同じことがわかるのである。

したがつて、上板橋部分に「根がため」部分が存在するため、上板橋部分の河幅は上流の未改修部分より狭いとの原告の主張は右「根がため」に関する誤解にもとづくものであつて、河幅が上流部分より狭い部分は存しないのであるから優先的改修の右主張は失当といわざるをえない。

なお、右の「根がため」は、護岸の天端の高さまで存在するのではなくて、文字どおり護岸の「根がため」をするものであるから、護岸の河床に近い部分に、一定の高さで存在するものである。

4  排水機場等の不設置の主張について

(一) 排水機場について

原告は、本件事故当時本件事故箇所附近に排水機場の設置がされていなかつたことをもつて、河川管理に瑕疵があると主張する。

しかしながら、排水機場は河川施設ではなく、下水施設の一部であり、しかも右施設の設置と本件水害との間には因果関係がないから原告のかかる主張は失当である。

すなわち、東京都下水道局が本件水害箇所附近に設置を予定していた排水機場の機能は、石神井川の流水が下水管の吐き出し口の高さまで達して、下水が自然流下できなくなり、なお石神井川の流下能力に余裕がある場合に、ポンプで人工的に排水するもので、下水の排水を助ける施設である。

したがつて、仮に排水機場が本件水害当時本件箇所附近に設置されていても、排水場の機能が前述したように石神井川に流下能力に余裕がある場合にのみその機能を発揮しうるものである以上、石神井川が溢水したときにはその機能を発揮しえないものであるから、本件溢水による被害の防止又は軽減には何ら有効に機能しえず、排水機場の不設置と原告の損害との間には因果関係が存在しない。

(二) 警報機について

原告は、本件事故当時本件事故箇所附近に警報機の設置がされていなかつたことをもつて河川管理に瑕疵があると主張する。

しかしながら、原告のかかる主張は、次の理由から失当である。

すなわち、警報機は、河川の附近住民に河川が警戒すべき水位にあることを知らせることによつて、住民の水害からの被害の防止及び軽減に役立つことを目的とする水防施設であり、これは水防管理団体である特別区が設置すべきものであり、河川管理施設ではないから、これが設置されていなかつたことをもつて河川管理に瑕疵があるということはできない(水防法二条により、水防の責任は特別区が負うものである。)からである。

仮に、警報機が広い意味で河川管理施設であるとしても、警報機の設置は、本件水害当時、都内中小河川において設置されていた河川はなかつたのであつて、現在においても全国的になおほとんど普及していない状況であるから、同種・同規模である他の河川と比較しても、又社会通念に照らしても、本件事故当時本件事故現場附近に警報機が設置されていなかつたことに何ら不合理はなく、河川管理に瑕疵があつたということはできない。

5  本件水害の原因について

最後に、本件水害の原因につき述べれば、本件一七号台風による異常な豪雨という不可抗力の自然現象によるものであることは明らかである。

昭和五一年九月九日東京地方は台風一七号の影響によつて、多量の降雨にみまわれたが、原告建物所在地より上流域にある各観測所の一時間当り雨量をもとにしてその原因につき述べれば次のとおりである。

(一) 石神井川は、原告建物所在地よりはるか上流の一部を除いて時間雨量三〇ミリに対応しうる能力を有していたのであるが、時間雨量三〇ミリをこえる雨量を記録したのは小平で二回、田無で二回、吉祥寺で三回、練馬で一回あつて、しかもそのなかには時間雨量六五ミリを最高に四〇ミリ以上が四回も含まれ、石神井川の流下能力をはるかに超える降雨があつたことである。

(二) さらに、本件事故が、きわめて大きな溢水事故となつたのは、前述の降雨量が多量であつたことに加えて、雨の降り方に特異性があつたからである。

すなわち、上流部の小平、田無に二時から四時にかけて豪雨をもたらし、その豪雨がしだいに下流部の吉祥寺、石神井、練馬、赤塚へと移動したことである。このことによつて、上流部の豪雨による流量が下流につくころに、下流部に豪雨がもたらしたことによる河川への流量とが相乗効果をもたらして、溢水の程度をより大きくしたものである。

(三) 本件事故当日、田無市において、三時から四時の間において記録した時間雨量六五ミリは、中央気象台における昭和二年から昭和五一年一二月までの五〇年間において記録した年別最大雨量記録からみると、六位に入るようなきわめて大きな雨量であつて、このような異常な豪雨が、溢水の程度を極めて大きなものとしたのである。

四  被告の主張に対する認否

争う。

第三  証拠〈省略〉

理由

一被告国が河川法九条一項により石神井川を管理し、同法九条二項により東京都知事をして石神井川の管理の一部を行わせているものであり、被告東京都が同法六〇条二項により石神井川の管理費用を負担するものであること、原告が肩書地に本社、石神井川に近接する板橋区大谷口北町八九番地に工場を有する株式会社であること及び、昭和五一年九月九日、台風一七号のもたらした集中豪雨により、石神井川が板橋区大谷口北町附近を中心に出水、氾濫して本件水害が発生したことは当事者間に争いがなく、〈証拠〉によれば、本件水害により、原告の板橋工場が浸水し、被害を生じたことが認められる。

二石神井川改修事業

〈証拠〉によれば次のとおり認められる。

1  石神井川流域の概要

石神井川は総延長二五・二キロメートルの隅田川の支川で東京湾北端の河口から隅田川を約一五キロメートル北上した北区堀船で隅田川に合流している一級河川である。

その源は、東京の中北部に位置する小平市の通称鈴木新田附近とされているが、現在ではほとんどその水源は涸渇して、平常時の流水は大部分が雑排水となつている。

排水区域としての石神井川の流域は、国電山の手線の最北端から西に伸び、中央線とほゞ平行に約二三キロメートルの小平市東部まで含まれる。

南北の幅は狭く、最も広い所でも五キロメートルと細長い糸瓜状に東京北部一帯の武蔵野台地の排水を集めて隅田川に注いでおり、その総面積は六一・六平方キロメートルで、東京の中小河川としては比較的大きいものである。

下流部一帯は荒川三角州の北部に位置する低地帯であり、上流部は武蔵野台地で海抜六〇メートルと流域平均勾配は約四二〇分の一となつている。

又河道の勾配は上流部で三〇〇分の一から四〇〇分の一、中流部で五〇〇分の一、下流部で七〇〇分の一程度となつている。

2  石神井川流域の都市化状況

石神井川に流入する排水区域は、東京都の北部一帯に位置する四区(北、板橋、豊島、練馬)、五市(保谷、田無、武蔵野、小平、小金井)の六一・六平方キロメートルと、東京の中小河川の中では、その受け持つ排水区域が比較的大きな河川であり、前記の流域形状のため、東京の都市化が、都心部からドーナツ状に周辺部へ進んだことの影響を受けて、流域の市街化は、下流から上流へと進んで行つたのである。

板橋区まで上ると住居地域は増え続け、昭和五一年には、全体の五六パーセントにも達している。

板橋区の場合の都市化は、現在の市部程度の市街化状況から今の状態まで移行するのに約二〇年を要している。

本件箇所附近の河川の護岸から一〜二メートルの高さの地域について、その開発状況を見ていくと、昭和二〇年代まではそのほとんどが農耕地であつたものが昭和三〇年代後半に入つて、一気に市街化が進んでいることがわかる。

3  石神井川の改修計画

狩野川台風による大水害を受けその降雨と被害の大きさに加えて、市街化が進み始めた流域の状況を考慮し計画の改訂が行われた。これが昭和三五年にできた第一次改訂計画(仮称)である。

この計画では、流出率を高めている。すなわち、上流から順に、全流域の内の二割強を五〇パーセント五割弱を六〇パーセント、残りの最下流部では七八パーセントの流出率を見込み、最大流出量を毎秒二三〇立方米としている。

その後、東京の河川と下水道との関係がどうあるべきかについて知事が諮問した東京都市計画河川下水道調査特別委員会から、昭和三六年一〇月一七日に答申が行なわれ、流量算定にあたつては、合理式(比較的小規模な流域形態の河川において、ある降雨による流出の最大値を求めるために用いられる流出計算式の一つである。)等のみによらず多角的に検討することとされた。このため下流を受け持つ河川もこれに対応すべく昭和三七年に計画の改訂が行なわれた。これが第二次改訂計画(仮称)であり、その計算手法に通称、狩野川逓減公式が考案され、これによる降雨強度の算定法が採用されたのである。

この狩野川逓減公式による降雨強度の算定法は、狩野川台風の際の東京都内実績降雨を分析し、中央気象台で時間最大七六ミリメートルの雨量が観測されたことと、雨の強さの地域的分布が、中央気象台からの距離が離れゝば降雨強度は弱まつていたという実体を配慮したものである。

この計画では、流出率は第一次改訂計画とほとんど同じ考え方をとり、降雨強度については前述の狩野川逓減公式を採用したため、計画最大流出量は毎秒二九〇立方米に増えている。

この頃から東京の市街地の膨脹が顕著となり、しかも、特に周辺多摩地区の市街化が進み、条件の悪い土地の開発が進んでいる。

狩野川台風以来数年の間目立つて大きな洪水は発生していなかつたが、昭和三八年八月二五日から三一日にかけて雷雨、台風、異常低気圧と三回にわたる集中的な異常降雨に見舞われ、その後、昭和四一年六月には四号、六号台風と大きな浸水被害を受けるに至つて、更に改修計画の改訂を余儀なくされた。その改訂の重なる理由は、昭和三八年、四一年と年代が進むにつれて、浸水被害区域に変化が見られたためである。

すなわち、従来は、旧市街地に多く見られた浸水被害の発生が周辺多摩地区に移行していつたのである。

そのため、これまで石神井川にあつては、上流部の市街化の限界を旧市街地より低く見込んでいたが、結局、流域全体を旧市街地と同等に扱う必要が生じたため、流出率を全流域にわたつて八五パーセントまで上げる改訂を行つた訳である。これが昭和四一年の第三次改訂計画(仮称)である。

その後昭和四四年東京都の中小河川改修計画の降雨強度式は、中央気象台の降雨実績によつて抜本的な見直しが行われ現在使用されている中小河川として独自の降雨強度式が確立された。即ち、従来の計画では、大河川と、下水道との中間的規模を持つ中小河川の領域の技術開発が遅れていたゝめ、止むなく下水道で開発されていた式をそのまゝ使用してきたものであり、中小河川の流域特性からみて、その実体により近い形にする必要から改訂が望まれていたものである。

この降雨強度式の確立によつて石神井川の計画も改訂されることとなり、昭和四四年第四次改訂計画(仮称)……現在の計画……ができ上つた。そして最大流出量については現在の四八〇立方米が決定したのである。

度重なる改訂が行われて来た石神井川の計画は、一貫して時間当り五〇ミリメートルの降雨に対応する規模でありながら、今日までの予測をはるかに上回わる流域の市街化によつて四八〇立方米という流出量を想定しなければならなくなり、このことが改修事業の進捗にも大きな影響を与えたのである。

4  石神井川改修工事にかゝわる都市計画決定と事業承認

(一)  石神井川の都市計画決定

石神井川の改修事業は、戦後旧都市計画にもとづく、戦災復興院による昭和二二年一一月二六日付告示により荒川合流点(現在隅田川)から山手線鉄道橋上流まで三・一八キロメートルの区間について計画決定された時以来、昭和三六年に初めて都市計画事業として本格的に事業化された。

その後、次々と都市計画区間を増し、現在では、全延長二五・二キロメートルのうち、約二二・六キロメートルの区間(約九〇パーセント)が計画決定している。

(二)  石神井川の事業承認(事業決定)

石神井川の改修事業は、神田川、渋谷川等に比べ、流域の市街化が遅かつたこともあつて、都市計画の事業として実施する以前に、耕地整理による河道整備等が早くから行われていた。

ちなみに、板橋区の金沢渓谷上流と練馬区の全川については昭和初期に現在の河道に整備されたものである。

したがつて、都市計画事業としての石神井川の本格的な改修が始まつたのは、沿川の氾濫原に住宅が建ち始めたところへ、狩野川台風(昭和三三年)による大きな被害を受けたことにより、河川改修の必要性が世論として高まつた昭和三〇年代中頃からである。

そして、昭和三六年一月一三日、都市計画決定区間を練馬区南町五丁目(中の橋下流)まで伸ばすのと同時に、荒川合流点(隅田川合流点)から、板橋区板橋町六丁目(金沢橋下流)までの三・二七キロメートルの区間について、石神井川としては始めて都市計画の事業認可を受けたのである。第一回の事業承認は、施行期間を昭和三五年度から四〇年度までとしていた。次いで右事業承認にかゝる区域の金沢橋付近でもともと流下能力が大きい区間がありその箇所においては、特に緊急に工事に着手する必要がなかつたので、右事業承認にかゝる区域の区間の完成を見なかつたが、昭和四一年一月二四日、改めて事業区間を隅田川合流点から四・九四キロメートルの板橋区大和町五丁目(新板橋上流)まで延長しその施行期間を昭和四四年度まで延伸する旨の事業承認を受け金沢橋上流の流下能力の不足していた区間にも着手したのである。

昭和四三年九月三日、前述したように都市化による洪水流出量の増大化と、浸水被害の上流部への移行に伴つて、計画高水流量の変更が必要になつたため、計画決定を受けると同時に、特に計画高水流量が急変する田柄川合流点の桜橋上流まで(隅田川合流点から八・一二キロメートルの区間)事業区間を延長することとなつた(本件水害箇所を含む)。その施行期間を二ケ年延伸し、昭和四六年までとした。

そして右の区間について、昭和四七年三月二五日に右期間を三年間延伸して昭和五〇年度末までとする旨の事業承認をうけ、その後昭和五〇年三月一八日に右期間を昭和五三年度末まで延伸し、更に昭和五三年五月一八日に昭和五七年度末まで事業期間を延伸する旨の事業承認をうけた。

なおこの間、他の都市計画事業の施行に伴つて河川改修を同時施行するため、昭和四四年三月四日に保谷市内の一部事業承認を受け、その後昭和四七年六月六日に、田柄川合流点から練馬区羽根沢三丁目までの一・一キロメートルの区間について、先行して事業用地の取得を開始するために事業承認を受け、更に、昭和五二年三月二四日、その期間を昭和五五年三月三一日までに延伸する旨の事業承認を受けている。

5  改修事業の変遷

(一)  石神井川の改修事業

石神井川の改修事業は旧市内に流域を持つている河川よりも流域の市街化が遅れたこともあつて、昭和三〇年代に入つてから本格化している。

そして、昭和三四年度から改修計画に沿つた改修工事が、最下流部の隅田川合流点より上流に向けて始まつたのである。昭和四三年に現在実施している整備工事が始まるまでの約九年間に、特に、四一年四号台風で甚大な被害を受けた王子駅附近に力が注がれ、飛鳥山捷水路の随道工事を始めとする五一件の改良工事を実施した。

そして、昭和四三年度から都として石神井川の整備に特に力を注ぎ、他府県では類を見ない程の都単独費を投入している。

そして、板橋区内の整備は昭和四二年度に始まり、四三年度から軌道に乗り、四四年にはそれまで北区内にあつた主力が板橋区内に移り、四五年になると、北区内の工事は年間に一件を数える程度に減り、そのほとんどが板橋区内に集中することとなつた。この間(昭和四三〜四五年度)二九件、一一億四、四〇〇万円の事業が実施された。

ところで、その後軌道に乗つた石神井川の整備事業も昭和四八年の石油危機による物価高騰や、事業の前進基地が中仙道、川越街道、環七、東武東上線等、工事に長い年月を要する区間に突入していたこと、加えて、市街地の中心に差し掛つたこと等の悪条件が重つたために、財源と労力だけでは解決し得ない物理的、時間的条件が課せられたが、昭和四九年には東上線下流まで着手することができた。この間(昭和四六〜五〇年度)板橋区内で実施した工事は、六〇件でこれに要した事業費は、四五億一、九〇〇万円にのぼつている。

昭和五一年度の単年度に実施した板橋区内の整備事業は一五件で二一億六四〇〇万円という投資が行われている。

(二)  石神井川改修工事と都内河川工事の中での位置づけ

(1) 都財政にみる石神井川改修工事

東京都における建設事業費は昭和三一年に七六億円で、五〇年には一、二七九億円と一七倍弱まで伸びている。これに対し、河川関係事業費は、同じ二〇年間に八億円から二二三億円となり、二八倍弱の伸びを示している。

又、都市化が大きく進んでいた昭和四〇年度から五〇年度までの建設事業費、河川事業費、中小河川事業費、石神井川の事業費についてその伸びを比較してみると、昭和四〇年度の事業費を一〇〇とした場合、昭和五〇年度のそれぞれの指数は、一六八・四、一八八・三、三八九・一、五六六・二である。石神井川について、昭和五〇年度試算によれば、全長二五・二キロメートルのうち約六・二キロメートルが完成、約二〇キロメートルがその後改修が必要とされていたが、これに要する事業費は概ね八〇〇億円とされており、これは、都が同年に二〇数河川の事業を実施するのに要した総投資額の三倍である。

(2) 石神井川改修工事の施工順序

一般的に、河川改修は下流から実施していくのが普通である。又、河川改修は一定の計画規模で上流から下流まで一貫した流下能力を持たせる必要があることと、改修の実施規模、その時代の社会、経済情勢によつて改訂増補すべきものであることから段階的に改修規模を向上させていかなければならないものである。

板橋練馬両区の区間は、昭和初期に実施された護岸が残つており、本件水害発生当時でもその流下能力は、時間当たり概ね三〇ミリメートルの降雨に対応しうるものであつた。

又、更に上流市部においては、これまで災害復旧等によつて実施された護岸がほとんどで、その流下能力はややそれを下回つていた。

三本件水害の状況

〈証拠〉によれば次のとおり認められる。

1  気象概況

昭和五一年九月四日トラック島の北西海上で発生した台風一七号は、その後北西に進路をとりながらしだいに勢力を増し、八日三時北緯二二度三五分東経一三一度四〇分(南大東島南方)で中心気圧九一五ミリバール、中心附近の最大風速は六〇メートルの大型台風であつた。

さらに九日三時には、北緯二五度三五分、東経一二九度二五分(沖縄本島と南大東島間の海上)の地点に達し、中心気圧九二五ミリバール、中心附近の最大風速五〇メートルを示した。

この大型台風の影響により関東地方に横たわつていた前線が刺激され、台風の中心より約一、五〇〇キロメートル余り離れていた東京地方でも八日から雨が降りはじめ、特に九日になつて多量の降雨にみまわれた。

2  石神井川流域における降雨の量と態様

前述のように台風一七号の影響によつて東京地方は、昭和五一年九月九日に入つてから多量の降雨にみまわれたが、石神井川流域においては前日の同月八日の午後二時頃から断続的な降雨があり、台風一七号が東京地方に最も強い降雨をもたらした同月九日には本件箇所の上流域にあたる田無の観測所(田無市建設部)の観測結果によれば同日の午前三時から四時までの一時間雨量が六五ミリメートルであつたと記録されている。これらの雨は九月九日の午前二時頃から午後三時頃までの間に前後二回にわたつて集中的に降り、その降り方は、いずれも石神井川の流下方向、すなわち、西から東へとその中心を移しながら進んだため、石神井川流域においては中流域から上流域に降つた雨水の流出が当該流域河道の流下能力以上となつて、石神井川は右雨水をのみこめず、特に田無市内、保谷市内、練馬区内の流域では、氾濫しながら河道一杯になつて流れてきた。

その時本件箇所附近流域に中心を移してきた台風一七号の強い降雨が、上流域の降雨による流水量の増加に併せ、河道への流入という流水量の異常な重畳的増加をきたし、最悪な結果を招来した。

3  台風一七号による降雨の異常性

(一)  石神井川流域におけるこれまでの降雨量との比較

前述の台風一七号による降雨量をこれまでの石神井川流域における各観測所の記録と比較してみることとする。

そこでまず時間当り降雨量からみると、台風一七号による昭和五一年九月九日の降雨量は小平四位、田無一位、吉祥寺四位、石神井四位とほぼ全域に大雨をもたらしており、ここで注目すべきは昭和三八年八月三〇日、三一日の降雨及び昭和四〇年八月二一日の降雨が地域的に偏在していたのと比較し、河川全域にわたり極めて多量の降雨があつたという点である。

また日降雨量からみると、台風一七号による降雨量は、小平一五九・五ミリで一位、田無一八三ミリで一位、吉祥寺一五二・三ミリで二位、石神井一一一・五ミリで四位と他に比較し圧倒的に多く、時間降雨量、日降雨量を総合してみると台風一七号による降雨量は、石神井川流域においては、観測を開始した昭和三八年以来最大級の豪雨であつたのである。

(二)  石神井川流域に近い地域におけるこれまでの降雨量との比較

ところで石神井川流域における観測所の記録が昭和三八年以降しかなく、比較的記録が少ないので、念のため石神井川流域に近い地域におけるこれまでの日降雨量と比較してみると、田無の一八三ミリは中新井では三位、村山では四位、府中では二位に該当する記録であり、小平の一五九・五ミリ、吉祥寺の一五二・三ミリの記録も中新井、村山、府中の各観測記録の中で四位ないし六位に該当する記録である。

これらのことを総合すると、台風一七号による日降雨量は、戦後の代表的な豪雨である狩野川台風、台風四号に匹敵ないし準ずるような極めて異常な豪雨であつたことが明らかである。

4  被害状況

この台風一七号はほぼ日本を縦断していた前線を刺激し豪雨をもたらし、都心を貫流している石神井川、神田川の流域を中心とした地域に多数の被害を発生させた。

とくに石神井川の板橋区大谷口、練馬区関町附近の浸水被害は床上一、二六〇棟、床下一、一四〇棟の多くを数え、その他の被害を合わせると石神井川流域の浸水棟数は三、二〇〇棟にも達し、その被害は、ほぼ都全域にわたりその浸水被害の総計は八、二〇〇にのぼつた。

この水害の特徴は、従来の公共溝渠や普通河川の溢水、排水不良に伴う滞留水による被害に加えて河川自体の溢水があつたため被害が大きくなつた。

5  本件箇所附近の地形の特徴

本件箇所附近は低地であり、戦後になつてから、ぽつぽつと建物(主として居住用家屋)が建ち始め、昭和三二年頃には約半分位が宅地化されてきたが、いわば、この附近の土地は元来宅地としては不適な低地であつた。

このことは、本件箇所に近い学校橋を渡る右岸の道路と附近の護岸高と比べてみれば明白なことである。

すなわち護岸天端高約二三・八メートルに対し護岸背面道路高二三・二二メートル、また学校橋より約七〇メートル離れた道路面高は二二・九四メートル、約一二〇メートル離れた路面高では二三・一六メートル、約二〇〇メートル離れた路面高は二三・五六メートルさらに約二五〇メートル離れた路面高が二三・九メートルと護岸天端より低い地盤が約二三〇メートルにわたつて続いている。

この先南方に向つて約六〇分の一の勾配で急に地盤が高くなつている。

このことは本件箇所附近では石神井川が溢水する以前に降雨の溜り水と下水道のあふれによる内水氾濫が起ることを物語るものである。

四改修工事の遅延の主張について

〈証拠〉及び前記認定事実によれば次のとおり認められる。

1  石神井川における本件水害の発生した五一年当時の河川の流下能力は、本件地の下流に位置する東上線交差部までは時間雨量五〇ミリメートルに対応しうるまでの改修工事が進捗しており、東上線交差部より本件地を含む上流部分は、時間雨量三〇ミリメートル程度に対応しうる流下能力を有していた。当時の都内の他の中小河川の改修規模の主眼は時間雨量三〇ミリメートルであつた。

2  石神井川の改修基本計画は、当初昭和二二年都市計画決定をえ、昭和三六年改修区間を隅田川の合流点から練馬区中之橋まで延長することになり、原告の所在地附近が包含された。

昭和四三年九月三日告示の事業承認により、これまでの改修区間を延長して隅田川合流点から上流桜橋までの八、一二〇メートルとされ、ここにはじめて原告の所在地附近の石神井川の改修事業が事業承認をえて具体的に着手することになつた。

右改修実施計画である事業承認の主な内容は次のとおりである。

石神井川の流域は、その当時急激に市街化の傾向にあつたので、防災上の見地から本案のように計画及び事業を変更しようとするものであつた。

改修区間は従来隅田川合流点から新板橋までの四、九四〇メートルであつたものを、終点を新板橋より上流の桜橋まで延長して、原告の所在地附近の石神井川まで含むこととし、八、一二〇メートルとした。

改修総延長八、一二〇メートルのうち、既に昭和四二年度までに改修済の三一%を除いた六九%について、昭和四三年度から昭和四六年度の四年間にわたつて施行するものとし、その施行割合は、昭和四三年度から昭和四五年度までが各年度一八%、最終の昭和四六年度はその余の一五%とした。

総額八五億五、二二一万八千円のうち、昭和四二年度までに既に執行済の二六億三、二二一万八千円を除くその余の約六〇億については、昭和四三年度以降の四年間に工事の施行割合に従つて割りふつた。

申請書自体には明確には出ていないが、時間当り雨量五〇ミリに対応しうるものであつた。

改修区間の改修工事の施行順序については特に定めなかつたが、下流原則に従つて下流から順次改修工事を行うというものであつた。

昭和四一年六月、台風四号により都内中小河川の未改修地域に浸水被害を受けたことからこれに対処するため被告東京都は昭和四二年二月東京都中小河川緊急整備計画を策定したが、右計画の改修規模は多くが時間雨量三〇ミリを主とするものであり、一部のみ五〇ミリ対応の改修を行つていた。

右計画は、その後昭和四四年に被告東京都において策定した「東京都中期計画」に引き継がれ、右中期計画における改修規模も、時間雨量三〇ミリを主とするものであつたが、石神井川など一部の河川については、当初から一時間五〇ミリの降雨に対処する規模で整備するものも含まれていたのである。

わが国の河川改修計画の基本計画である治水事業五ケ年計画において、昭和四七年に策定された第四次五ケ年計画にあたつては、河川を時間雨量五〇ミリ対応と位置付けている。

また、施行年度については、昭和四三年九月三日告示の事業承認の施行年度の終了時点である昭和四六年度(昭和四七年三月三一日)までに完成不可能であつたので、昭和四七年三月二五日告示の事業承認で昭和五〇年三月三一日まで施行期間を延長し、更に昭和五〇年三月一八日の事業承認で昭和五三年三月三一日まで施行期間を延長している。

次に事業費であるが、昭和四三年九月三日告示の事業承認における事業費は、八五億五、二二一万八千円と定めた。

3  前述したように原告建物附近の石神井川の改修は昭和四三年九月三日告示の事業承認により、はじめて時間雨量五〇ミリ対応としてとり組まれることとなつた。

そして、右事業承認は同四七年三月二五日、同五〇年三月一八日に施行期間と資金計画がそれぞれ変更されたが、その他の改修内容はそのまま引き継がれた。

ところで、原告の建物の存在する土地のやや上流の上ノ根橋附近から下流に向つて上板橋附近までの間、さらに上板橋から下流へ向つて東上線と交差する間附近の土地は、地形的にも地盤が低いため、以前から浸水被害がしばしば生じた土地であつて、昭和四三年の一年間でも同年四月三〇日及び同年八月二九日の二回において被害を発生させている。

4  原告建物附近より上流部が未改修で、原告建物附近から上板橋まで改修されており、その下流部は未改修のままというのであるから、河川の流下能力としては、未改修である下流部の流下能力しか有しないこととなる。

そして、下流部の流下能力は時間雨量三〇ミリに対応しうる程度であつたから上板橋から原告建物附近までをさきに時間雨量五〇ミリ対応の護岸を築造したとしても、時間雨量五〇ミリ対応の能力を有することとはならず、即時的な治水効果は全く認められない改修となる。

5  原告建物附近の石神井川の改修工事が時間雨量五〇ミリ対応にくみ入れられたのは、昭和四三年九月三日の事業承認によるものであるから、特に昭和四三年度から本件事故(昭和五一年九月九日)の前年である昭和五〇年度までについて、中小河川事業費に占める石神井川改修事業費の割合を示すと、中小河川事業費に占める石神井川改修事業費の割合は、一番高い昭和四三年度で二八・八%、一番低い昭和四九年度で一五・五%、そして八年間の平均では二一・六%にあたる。

ところで、東京都管内の河川は全部で一一五河川あり(但し、これは昭和五三年九月一日現在であるが、年により数河川の増減がある。)、このうち大河川である江戸川、多摩川、荒川を除いたその余の一一二河川が都内中小河川ということになる。

ところが、右一一二の中小河川のすべてが当面河川改修を必要とするわけではなく、そのうち特に四六河川について当面河川改修を必要とし、河川の改修を行つてきたものである。改修を必要とする四六河川の延長は三四八・八キロメートルで、うち昭和五二年三月三一日現在の改修済延長は四二・九キロメートルで改修率は一二・三%である。

これに対して、石神井川は、改修必要延長は二五・二キロメートルで、そのうちの昭和五二年三月三一日現在の改修済延長は、六・七キロメートルで改修率は二六・六%である。

国における中小河川の昭和五一年度末における整備状況は、要整備延長七万三、五〇〇キロメートルのうち時間雨量五〇ミリメートル相当の降雨で安全な区間は一万九〇キロメートルであり、その整備率は一三・七%である。

以上の事実関係からすると、石神井川の河川管理は一般水準及び社会通念に照らして是認しうる安全性を備え、その改修実施計画には合理性があると認めることができる。そして、その後の事情の変動により未改修部分につき水害発生の危険性が特に顕著となり、当初の計画の時期を繰り上げ、又は工事の順序を変更するなどして早期の改修工事を施行しなければならないと認めるべき特段の事由が生じたとは認められない。改修工事の遅延につき河川管理の瑕疵はない。

五改修工事による流水阻害の主張について

〈証拠〉及び前記認定事実によれば、本件水害当時、上板橋上流の改修工事が完了していた区間(一一〇メートル)に、その下流端から約四メートル上流の地点より上流方向へ三〇メートルにわたり幅一五メートルのステージングが設置されていたこと、右ステージングの構造は、H杭の足の上に覆工板を敷いたもので、H杭は一般的に三〇〇Hと呼ばれているもので、断面の寸法は縦横とも三〇センチメートルであつたこと、右H杭の配列は、河川の断面でみると、左岸から五・四メートルのところにH杭があり、そのH杭の幅が三〇センチメートルであつて、次にこのH杭から六・二メートルのところに更にH杭があり、そのH杭の幅は三〇センチメートルであり、更にそのH杭から右岸まで四・二メートルの幅があつたこと、石神井川の改修工事の請負業者であつた訴外佐藤工業株式会社上板橋作業所に勤務していた訴外山田一夫らが、ステージング設置箇所でゴミを除去する作業を行つたことが認められる。

従つて、畳等が流れて来ても、四・二メートルの間隔があつたH杭の間を十分に流れることが可能であつたと考えられる。

六上板橋部分の改修の遅延の主張について

〈証拠〉によれば、上板橋部分においてやや上流の両岸部分にある鋼矢板の部分は、「根がため」といつて、護岸の倒壊等を防ぐために河床部分にやや突き出ているコンクリートで被覆された部分であつて、これは改修工事以前から存在する在来河川そのものなのであること、そして、河川の「根がため」は、上流の未改修部分についても存在するものであつて、同様に両岸に鋼矢板があり、これが「根がため」であること、この鋼矢板ではさまれた河川の幅と原告が主張していると思われる上板橋部分とを比較してみると、ほとんど同じことが認められる。

従つて、河幅が上流部分より狭い部分は存しないのであるから優先的改修の主張は理由がない。

七排水機場等の不設置の主張について

〈証拠〉によれば、東京都下水道局が本件水害箇所附近に設置を予定していた排水機場の機能は、石神井川の流水が下水管の吐き出し口の高さまで達して、下水が自然流下できなくなり、なお石神井川の流下能力に余裕がある場合に、ポンプで人工的に排水するもので、下水の排水を助ける施設であること、仮に、警報機が広い意味で河川管理施設であるとしても、警報機の設置は、本件水害当時、都内中小河川において設置されていた河川はなかつたことが認められる。

従つて、排水機場の不設置と本件水害との間には因果関係がなく、警報機不設置に不合理はない。

八本件水害の原因について

〈証拠〉によれば、昭和五一年九月九日東京地方は台風一七号の影響によつて、多量の降雨にみまわれたが、原告建物所在地より上流域にある各観測所の一時間当り雨量をもとにしてみると、石神井川が時間雨量三〇ミリをこえる雨量を記録したのは小平で二回、田無で二回、吉祥寺で三回、練馬で一回あつて、しかもそのなかには時間雨量六五ミリを最高に四〇ミリ以上が四回も含まれ、石神井川の流下能力をはるかに超える降雨があつたこと、上流部の小平、田無に二時から四時にかけて豪雨をもたらし、その豪雨がしだいに下流部の吉祥寺、石神井、練馬、赤塚へと移動したこと、このことによつて、上流部の豪雨による流量が下流につくころに、下流部に豪雨がもたらしたことによる河川への流量とが相乗効果をもたらして、溢水の程度をより大きくしたこと、本件事故当日、田無市において、三時から四時において記録した時間雨量六五ミリは、中央気象台における昭和二年から昭和五一年一二月までの五〇年間において記録した年別最大雨量記録からみると、六位に入るようなきわめて大きな雨量であつたことが認められる。

結局、本件水害は一七号台風による異常な豪雨という不可抗力によるものであるという外ない。

九よつて、石神井川の管理につき瑕疵はないことに帰するから、その余の点につき判断するまでもなく、原告の請求は理由がないのでこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官大前和俊 裁判官高橋祥子 裁判官喜多村勝德)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例